環濠都市、東洋のベニス?堺(さかい)
環濠都市(かんごうとし)とは、その周囲に堀を配することによって、堀を外敵からの防禦施設や排水濠として利用した都市のことを言います。
16世紀に堺(さかい)で環濠が発展した大きな理由は、南蛮貿易によってさらに盛んになった海外貿易と、新たにはじまった鉄砲生産に由来すると言っても過言ではないのです。
当時、堺の会合衆(かいごうしゅう)などの豪商が莫大な富を蓄え、大きな力を持ち「黄金の日々」と謳われるほどの栄華を極めた堺全盛の時代でした。
堺は当時の要塞都市
豪商たちはセキュリティー強化の意味で、町の西側を海、他の三方を濠で囲んで防御する「環濠都市」を形成しました。
環濠の入口となる橋に門や門番をつけて外敵の侵入を防ぐことで、戦国時代にあっても、大名に支配されない自治都市を築いていたと言われています。
そもそも鉄砲は当初、ポルトガルから種子島に伝来したが、堺の商人がいち早く島を訪れてその製法を習得。弓矢に代わる鉄砲は戦国大名にとって戦いの勝利に欠かせない戦力であったため、堺は瞬く間に日本一の鉄砲生産地となったのです。(堺市鉄砲町という町名も残る)
【日本経済新聞】中世 外敵防ぐ環濠都市 堺に残る橋 隆盛の跡(もっと関西)
織田信長と堺の豪商・今井宗久
堺の豪商として知られる今井宗久(1520~93)は、大和国今井荘(奈良県橿原市)の出身で、青年期には堺の豪商・納屋宗次の家に身を寄せ、のちに独立して納屋業(倉庫業)を営むようになった。
その後、永禄11年(1568)9月に織田信長が上洛した際、摂津・和泉に矢銭(やせん)を賦課した。矢銭とは、戦国時代に大名が課した税の一種であり、軍用金に充てられていた。
同年、信長は堺の会合衆(かいごうしゅう)に対して、2万貫の矢銭を要求した。
2万貫は今の貨幣価値に換算すると約2億円という大金で、応じなければ堺を攻撃するとの脅しもあった。
今井宗久は命がけであったが、信長と密かに面会した。さらに矢銭の支払いに応じるよう会合衆の説得にも成功した。会合衆は信長に2万貫を支払い大きな被害を回避でき、このため堺の人々は九死に一生を得たことになる。
当時の大坂本願寺は信長の脅しに屈して5千貫(約5千万円)という大金を信長に支払い、ことなきを得ていた。
しかし、尼崎(兵庫県尼崎市)では支払いを拒否して信長の逆鱗に触れた。
当時の尼崎は経済力のある自治都市で信長に敵対する一向一揆の拠点でもあったため、
信長の3000人の軍隊が一気に攻め込み、ことごとく殺戮、焼き討ちにされ全滅している。
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